スーパーカブ90で行く北海道ツーリング第3話は、途中の仙台にて飯沼定吉と遠藤敬止の墓所とゆかりの地を巡ります。動画も投稿したので併せて御覧ください。
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飯沼定吉と遠藤敬止の墓所を巡る
今回は幕末の戊辰戦争を生き抜き、会津の歴史を後世に伝えるという重要な功績を残した会津人、飯沼貞吉と遠藤敬止の両名の墓所が有る、宮城県仙台市が舞台。
更に、飯沼貞吉おいては、老後に居住地を構え終焉の地ともなった住居跡地も巡って来ました。
動画と記事お好きなほうでお楽しみください。
仙台の飯沼貞吉の墓を初訪問
飯沼貞吉は幕末の会津藩で結成された組織で「白虎隊」と呼ばれる部隊の隊員の内の一人です。
白虎隊は出身の家の格式や、身分により部隊が複数編成されていましたが、その中でも士中二番隊という身分の高い家の出身の者が集まる部隊にいました。
全ての編成を含め白虎隊としては全体で340名程居ますが、史実や言伝えでよく知られる白虎隊は、貞吉が在籍していた士中二番隊がメインとなっています。
というのも、二番隊は現在でも戊辰戦争の悲劇として語り継がれている、白虎隊の悲劇として会津にある飯盛山での出来事が起因しているからです。
二番隊以外の編成の部隊は主君の警護など、どちらかといえば前線に出ていくような役割ではありませんでした。
しかし、貞吉の所属する二番隊は戸ノ口原と呼ばれる所まで進出し、新政府軍と戦います。しかし結果は芳しくなく、飯盛山まで後退します。
飯盛山で鶴ヶ城下の状況を見て戦局不利と見た二番隊一同は、潔く侍としての最後を迎えることを決断し、自ら散る事を選択します。
貞吉も仲間に遅れまいと侍としての性分を示しますが、仲間が皆旅立ったさなか、貞吉だけは僅かに息が残っており、それを発見した地元住民に助けられ保護されます。
こうして、飯盛山にたどり着いた士中二番隊としては貞吉が唯一の生存者となり、白虎隊の悲劇を後世に語り継ぐことになります。
ですから白虎隊といえば、とりわけ貞吉の所属していた二番隊を意味しています。貞吉がいなければ飯盛山での白虎隊の出来事は現在でも誰にも知られていないことでしょう。
貞吉は明治維新後居住地を転々とし、最終的には仙台で終焉を迎えますが、その間に一度も会津の地は踏んでいないと伝わっています。
また、飯盛山での出来事も口を開いたのは晩年のことのようで、それまでは白虎隊についての話はしなかったそうです。
その後、飯盛山では二番隊として散っていた隊士19名の墓石が並んでおり、現在は幕末の歴史を学べる観光地として賑わっています。
そして飯盛山にも貞吉の墓は建立されており、遺言に従い、抜けた歯と遺髪が埋葬されているのだそうです。
こちらの墓所については貞吉の気持ちを思慮してか、他の隊士が横一列に並んでいるなか、貞吉の墓石は少し離れた所に建立されています。
飯盛山にある貞吉の墓所は、自分は会津の生まれですから何度も足を運んだことがありますが、仙台にある貞吉の墓所は訪れたことがありませんでした。
ですから、今回のスーパーカブで行く北海道ツーリングでは大間のフェリーターミナルに向かう途中に訪問できるので立ち寄ってみることにしました。
墓所は宮城県仙台市にある、輪王寺というお寺の敷地内に埋葬されています。
輪王寺の敷地はとても広く、庭園は美しく作庭されていることで有名です。庭園を見るには拝観料が必要となる。今回は庭園が目的ではないので実際に庭園の見学はしなかった。
三重塔が建てられていて、相当の敷地面積があることが想像に容易い。
飯沼貞吉以外にも著名人の墓所が複数建立されているらしい。中々目的地を見つけられなかったため、本堂で職員に声をかけると案内地図を貰うことが出来た。
三重塔の裏手に回ると案内板が見えてくる。
細長い上り坂がお出迎えしてくれるが、これを最上部まで登り右手側に今回の目的地である貞吉の墓所が見えてくる。
向かって右側の墓石が貞吉の墓だ。銘は改名後の貞雄となっていた。
こちらの墓は貞吉没後1周年に、当時の住職が建立したと案内板には綴られていた。
飯沼貞吉終焉の地を目指す
続いて貞吉関連の地として、仙台駅近くの錦町1丁目に貞吉が最後を迎えた際に居住していた跡地があるということで巡礼しておくことにした。
仙台市青葉区錦町1丁目付近にひっそりと建てられている。現在は分譲マンションの敷地の一角にある。
実際に足を運ぶ際にはナビに光禅寺通りの【ザ・パークハウス錦町1丁目】と入力してたどり着いたマンションの通りのにある。
非常にヒッソリと建っているため、注意深く探さないと危うく通り過ぎてしまうくらいだ。
柵の内部には瓦が置かれていたが、これが貞吉が居住していた家のものなのかどうかは分かりません。案内板にも特に言及されていませんでした。
しかし、恐らく何の関連も無い物を展示する意味がないので多分、生前に貞吉が生活していた家の物と推測している。
これで何の関連も無い物であれば驚きを通り越して笑ってしまうことでしょう。
しかし、なんとも乱雑に置かれているのが気になる所ではありますが、果て一体…?
遠藤敬止の墓所、充国寺
輪王寺と貞吉終焉の地の近くには、もう一人会津の貢献者として祀られている、功績者の墓所がある。遠藤敬止とその一族の墓所だ。
七十七銀行の頭取、会津銀行(現在の東邦銀行)設立や学校の設立などの事業支援で、維新後の日本の発展に貢献している。
遠藤敬止もまた貞吉と同じく幕末の会津戦争を生き抜き、後世に会津の歴史を残すべく尽力した。
明治時代になり、新政府により鶴ヶ城の払い下げが決定された際には、私財で鶴ヶ城の敷地を購入し、松平家へ寄贈している。
その後、松平家から会津若松市へと所有が移された。
敬士がいなければ現在の鶴ヶ城は、残っていなかったといっても過言ではないでしょう。
今でも会津若松で鶴ヶ城の姿が見れるのは遠藤敬止の尽力のお陰なのです。
貞吉墓所の輪王寺近くに、敬止の墓所がある充国寺があるため折角なのでお参りして行くことにしました。
正面に見えるのが敬止の墓石のようだ。敷地内には弟と他一族も祀られている。
以上、スーパーカブで行く北海道ツーリング第3話でした。
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